2018年4月の記事一覧
花冷え(はなびえ)
今日は昨日と異なり、肌寒く感じます。最も4月初旬としては標準的な気温ですが…。今日のように桜の花の時期に訪れる一時的な寒さ、一種の「寒の戻り」のことを花冷えと呼びます。4月は不安定な天候が続き、「春に3日の晴れなし」ともいわれる時季でもあります。東北地方の一部の地域では、花冷えのことを桜の開花の便りが聞かれるにもかかわらず、炬燵やストーブをしまいきれずにいる状態から「花炬燵」とも言います。この花冷えで、時には晩霜(おそじも)が降り、農作物などにも多大な損害をもたらすことも少なくありません。
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清明(せいめい)
「清浄明潔」の略で、春の穏やかな陽光を受けて自然の息吹が清々しい様を意味する節気の一つです。春分後15日目にあたり、今年は今日4月5日です。農耕の季節の幕開けの時期とされています。古来中国では清明節と呼ばれ、春を迎えて先祖の墓参をしたり、郊外に出かけて宴を催す風習がありました。現在でも中国や沖縄地方ではこの時期に墓参をする習慣が残っています。今日は昨日より気温が下がり、過ごしやすくなりそうです。

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運動部、がんばっています!
今日も朝から晴れて気持ちのいい日です。天気予報のとおり、気温が10時には20°を超え、暖かいというより「暑い!」がピッタリの状況です。運動部の活動にはもってこいの気候です。校舎内は春休みでし~んとしていますが、グラウンドではソフトボール部、陸上競技部、サッカー部、野球部、ソフトテニス部が、体育館ではバレーボール部、バスケットボール部、練習場でウエイトリフティング部が練習に励んでいます。いづれの部も3年生が卒業し少人数での活動ですが、来週には新入生が加入し、今以上に活況を呈してくれる状況になると思います。
校舎内はし~んとしています ソフトボール部
陸上競技部 サッカー部、小人数で活動
バレーボール部 バスケットボール部
ソフトテニス部 ウエイテリフティング部
野球部 魂を込めてがんばっています!
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潮干狩り
春の暖かな遠浅の海岸でこの時期よくみられるのが、潮の引いた浜へ出てあさりやはまぐりなどの貝を採る「潮干狩り」。庶民の娯楽となったのは江戸時代といわれ、大人も子どもも楽しめる春のレジャーとして今でも人気があります。せっかく浜に出たならたくさん採って帰りたいもの。潮干狩りの準備や採り方のコツをご紹介します。太陽と月の引力によって、海には潮の満ち引きがあります。潮が満ちる「満潮」と潮が引く「干潮」が1日2回、約12時間周期で繰り返しされます。特に満月と新月の頃は、「大潮」といって潮の干満の差が大きくなります。潮干狩りのベストシーズンは、春から夏の大潮の日。干潮の2時間前から干潮までの時間帯で楽しむのがポイントです。全国各地に潮干狩りが楽しめるスポットがあります。場所を決めたら、干潮の時間をチェックしましょう。海上保安庁の公式サイトでは、地域ごとの潮干狩り情報を提供しています。あさりは潮汁や味噌汁などの汁物、酒蒸しやかき揚げ、バター焼きなどの料理やつくだ煮などの常備菜にもぴったり。江戸時代、深川の魚河岸あたりで流行ったのが「深川めし」。もともとは、あさり汁をご飯にかけた賄い飯でした。今はこの漁師飯スタイルと、あさりを炊きこんだ炊き込みごはんスタイルがあり、「深川めし」の有名店でもお店によってスタイルが違います。

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お花見
桜の花が盛りを過ぎようとしています。春は桜を愛でるお花見の季節です。桜を愛でるお花見は農民文化の風習が源です。「サクラ」は、古くは「稲の神様」です。「サ・クラ」のサとは稲(田の神)のことで、クラとは座、つまりサクラの名前は「稲の神の座」を意味するのです。古くは、サクラとは、初春に咲く山の草花のことを指していたのでしょうが、その美しさからいつしか山桜の名前に固定化されてきたものだと思われます。春山入りは、春先の花が咲く頃に飲食物を持って山や丘にのぼり、祖先を供養するとともに田の神をお迎えする一種の宗教的儀式のようなものですが、この時、サクラの咲き具合でその年の稲の出来を占っていました。桜の花の咲くこの時期は気候の変わり目で寒暖の変化が激しく、疫病がはやる季節でもあるので、強い風が吹いて稲に見立てた桜の花を散らしてしまわないように、万葉の昔から「風神祭」や「鎮花祭」も行われてきました。昔、疫病というのは春の花の飛び交う頃に、疫神が分散して病を与え人を悩ますものだと信じられ、これを鎮めるため奈良の昔から花時に鎮花(はなしずめ)の祭儀を行い、疫神を祀って鎮疫安穏を祈願する習わしがありました。
一方、貴族文化の花見は、かつて中国の宮廷でおこなわれた梅林の宴が日本に伝えられ、それが変形されたものだと言われます。最初は、梅が咲くころ宴会を催し、和歌や漢詩をつくっていたのが、平安時代に至って桜に座を譲ります。奈良時代の末に編集された「万葉集」では、梅を詠んだ歌は桜の3倍に近く、およそ120首にものぼりますが、平安時代の「古今集」では、その位置が逆転し、桜の方が多くなります。中国から伝来した梅に代わって日本の野山の桜がしだいに宴会や詩の主役になってきます。平安京紫宸殿の前には左に桜、右に橘が植えられ、左近の桜右近の橘と云われていますが、これも桓武天皇遷都(794年)の時に最初に植えられたのは桜ではなく梅で、後に(840年頃)梅が枯れたので桜に植え替えたと伝えられています。文献に現れる最も古い花見の宴は、弘仁3年(812年)2月12日に嵯峨天皇が京都二条城南殿の「神泉苑」(しんせんえん)という庭園でおこなったもので、それ以後春の花見の宴は恒例になったといわれています。当時の花見は現代と異なり、桜を見ながらその思いを詩歌に詠んだり、楽器を奏でたりして楽しむ、風流な趣のある宴であったようです。桃山時代には、豊臣秀吉が吉野山での花見や大規模な「醍醐の花見」を催しています。江戸時代になって庶民の間で花見が盛んに行われるようになるのは、徳川吉宗のころからです。吉宗は、吉野山を模して江戸の町に桜の木々を植え、桜の名所を造りだしました。この時代に、桜の花の下で弁当を開いて酒を飲むという現在の形に近い花見が確立しました。江戸の桜の名勝として有名だったのは、上野の山(ただし、飲食、音曲御法度)、飛鳥山(北区)、御殿山、隅田堤、そして関東随一と称えられたのが小金井堤の桜だったそうです。現在の日本の桜の名勝のうち、最も桜の木の本数が多い所は吉野山で、約3万本を数えます。
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