平成29年度~校長室

端午の節供

 今日は端午の節供(たんごのせっく)です。五節供の一つで旧暦5月5日のことです。「端」ははじめの意味で、端午とは月のはじめの午の日ということです。古来中国では5月を「悪月」とする考えがあり、それは5月の異名ともなるほどの陰陽道でいう凶の月で、忌みつつしむ月なのです。特に5月5日は悪月の頂点で、その日に生まれた子は父母を殺すとして捨てるならわしがあったほどでした。午月、つまり5月の午日を忌日として祓いの行事が行われていまましたが、漢代以降に端午の日が5月5日に定まりました。その後、中国では端午の日に人々は野に出て薬草を摘んだり、よもぎで作った人形や虎を家の門にかけたり、菖蒲酒を飲み、蘭を入れた湯にひたるなどして穢れや厄災を祓ったといわれています。
 
 鯉のぼりは5月5日を代表する風物詩となっています。鯉のぼりが端午の節供に立てられるようになったのは江戸時代中期頃といわれています。当時の端午の節句に武家では、家の外に幟や吹き流しを飾っていました。もともとは五色の吹き流しや幟の頂部についている風車や籠玉などが、神の招代とも忌み籠りの家の標示ともされるもので、吹き流しの五色は、中国の「五行説」に由来する水・金・地・火・木を意味する、言うなれば魔除けの色です。しかし、この幡や吹き流しは、町人には許されていませんでしたので、町方では、吹き流しの代わりにその織りの摩(まねき)に鯉を飾るようになりました。その後、中国の「奔流すこぶる急で、鯉だけが見事竜門を登り切り、その後竜になる」という『登竜門伝説』から立身出世の願いを込め、武家の間でも鯉のぼりを立てるようになり、吹き流しと鯉のぼりの両方を立てるようになりますが、明治以降に、この摩の鯉が織りから離れて独立し、吹き流しと結びついて 一本の竿に飾る大きな鯉のぼりになりました。 現在では、竿の先に回転球と矢車を取り付け、その下に吹き流し、真鯉、緋鯉の順に取り付けるのが一般的になっています。
 
    端午の節供では、柏餅や粽(ちまき)をよく食べます。柏餅は楝(おうち)の葉の代用として用いられたのが始まりで、江戸時代中期頃につくられたといいます。柏の木は新芽が出るまでは親の葉が枯れ落ちることなく守ることにちなみ、家系が絶えない縁起の良い葉として、親が子の無事を願う気持ちを表しています。ちまきは元々は端午の供物で、柏餅以上に歴史のある食べ物です。平安時代には、すでに宮中行事の端午の儀式で使われていました。関西では、男の子の初節供はちまきで祝い、二年目からは柏餅で祝うという習慣があります。また、「江戸にては初年より柏餅を配る」として地域文化の違いをうかがわせていますが、地方によっては柏の菓ばかりでなく、楢や朴の葉を用いることもあり、笹巻・笹餅といって笹の葉を用いるところもあるようです。端午の節句に粽を供えるのは、中国の楚の詩人屈原(くつげん)の故事によるものです。屈原は楚の王族に生まれ、三閭大夫として活躍したた武人で、妬まれて失脚し、湘江のほとりをさまよい、汨羅(べきら)に身を投じたのが5月5日(一説に夏至の日)だったので、屈原の霊を弔うため、この日に米を楝(おうち)の葉で包み、五色の綵糸で結んでちまきをつくって川に投げ入れたと伝えてられています。ちまきを門戸に吊しておくと流行病除け、または災難除けになるといわれています。ちまきはその後、茅の葉で巻くようになり、「ちまき」と呼ばれるようになったそうです。 茅の花穂はチバナとかツバナといわれ、春先のまだ開かないうちは食べられます。また高く伸びずに叢生するので、古典では「浅茅生(アサヂ)」と表されます。 日本で「ちまき」の呼び名がついたのは、茅の葉で巻いたため、あるいは千回巻く意にかけられたともいわれ、粽の形は竜だともいわれています。
 さまざまなことには、その起源となる出来事が必ずと言って言いほどあります。古くからの風習を大切にし、日本の文化を守っていきたいものです。